8月もいよいよ終わりと告げんばかりに台風の影響で土砂降りの雨、そして雷協奏曲!
地響きがするほど雷が鳴り続けました。お陰様で今のところ被害はありません。

晴耕雨読ではありませんが、月末のことをやっつけながら午後はイギリス人の墓地がどこにあったかにまたふと思いを馳せてしまいました。生月の鯨とりで平戸藩の財政を支えた益富家は元々武田家の家臣で平戸に流れてきました。武士の階級も捨てての平戸、生月暮らし。しかし、お告げで始めた鯨漁が大成功。1641年、それまで平戸にあった商館が長崎・出島に移されました。平戸藩は海外貿易で得ていた巨万の富を失くし困り果てていた所に益富家が鯨漁で藩の財政を支え、時のお殿様から屋敷を与えられ、武士の階級を復活させていただき、元々の姓、山縣を名乗ることができるようになりました。その屋敷があった所の裏の畑にイギリス人墓地があったのだという記載をつい最近発見。今度平戸市が掘ってみるという場所とは違う所^^;現地視察したくてたまりませんが、とても一人で行けるところではありません。そのことを書いている方は宮永孝氏。
興味をそそり氏の本を数冊借りてみました。
その中の一冊に出島の商館について書いてある本があるのですが、平戸人妻との間にできた混血児のことにもふれてありました。
一人はフランソワ・カロン。平戸オランダ商館の最後の商館長だった人です。平戸人の妻との間に6人の子供ができましたが、当時、異教徒との間にできた子供は嫡出子にはできませんでしたが、カロンのたっての願いで嫡出子扱いにしてもらっています。
三男のフランソワ・カロン(父と同名)は1654年オランダ、ライデン大学に入学、哲学専攻。
もう一人ドイツ出身のオランダ商館員カレル・ハルティンクと平戸人妻との間に生まれたピーテル・ハルティンクは父の故郷ドイツへ戻りラテン語学校に入り、その後オランダのライデン大学で哲学を専攻。カロンと同じく入学年は1654年です。
彼はラテン語学校に育英資金を設けてその資金は今でも生きているほどの財産家であったようです。
彼の眠る城中教会には墓碑があり、銘板には次のように書いてあるそうです。
「良家の出身にして、学才に恵まれ、人徳と品性を備え、冶金学にとりわけ秀で、主人であるブラオンシュヴァイク・リュネブルク公の宮廷と鉱山の顧問官であったピーテル・ハルティンク氏を記念して。
かれは西暦1637年10月15日日本の平戸の町に生まれた。
父であるカレル・ハルティンクはライン川畔のメールスで生まれ、まず日本に派遣され、のちにオランダ東インド会社の総務長官となった。かれの母は日本の上流の異教徒の家の出であった。かれは子供の時にヨーロッパに送られ、メールスとオランダで教育を受けた。かれは1680年6月12日にクラウスタールにおいて敬虔なまま永久の眠りにつき、当地の聖ヤーコビ教会に葬られた。」

当時混血児と日本人妻は遠くバタビアに追放されましたが、男児は大切にされたようで平戸のDNAが活躍したことが推察されます。